深まる秋、今月のヤマボウシ


 この日誌の定点観測樹として毎月、1日にご覧いただいている「ヤマボウシ」です。勝淵神社の東側に隣接する“みはらし山”にはヤマボウシが2本ありますが、樹形の美しいこの木が気に入っています。
 甘い実はもうすっかり熟して、爽やかな赤い色から紅色となり、一部は黒ずんできています。地面に落ちているものもかなりあり、秋が深まっているのを強く感じます。大型のノロノロ台風が相次いで列島を襲う前までは、このまま暑さが続くのではないかと思われましたが、いつの間にか冬に向けた気配が濃くなってきました。自然は偉大ですね。
 ヤマボウシの実は、ヒヨドリなどの小鳥が食べると言われていますが、みはらし山のヤマボウシにはあまり鳥が集まらないようです。歩き仲間には枝にいつまでも残る赤い実を見て、
「鳥が食べないということは、よほどまずいか毒があるんじゃないか」
 などと言う人もいますが、そんなことはありません。私は時々つまみ食いをしますが、さらっとした甘みに品があり、果肉は少しざらっとした独特の舌触りがします。もちろん、毒はありません!
 今朝、実をじっくりと見ていると、半分ほど食いちぎられたような実もありました(写真の右下楕円)。でも、圧倒的に地面に落ちるか、枝に残ったまま樹上で腐ってしまうものが多いのです。最近の小鳥は好みが変わったのかもしれませんね。
 私の高校時代からの友人の奥方で、野生食研究家として活躍している木佐森千砂子さんの『野草と野菜・果物 まるごと活用術(法研刊)』にも、ヤマボウシが登場し、ジャムやフルーツソース、果実酒の作り方が紹介されています。

電線にとまるコサギの集団


 昨日(9月29日)の朝歩きでのことです。拙宅を出ておよそ20分で、仙川に架かる弁天橋に出ます。橋を渡って道なりに進むと、麗しいお嬢様たちが学ぶ「白百合女子大学」がすぐ左手にあります。やや高い塀に囲まれたキャンパスには、カシ、クヌギ、イチョウ、ケヤキ、クスノキ、アカマツなどの巨木が茂っています。
 朝早くからこの付近をうろつくと、あらぬ疑いを掛けられますから、たまにしかそちらへは行かず、普段は弁天橋手前から左の曲がって仙川沿いを上流に向かって進みます。ごくたまに気が向いて女子大方向に行くときは、なるべく速足でやり過ごすことにしています! それでもやはり気になります。正門から中を覗くともなくそっと見やると、さすがに女子大ですね、手入れが行き届いていて、森のなかの邸宅という感じの校舎が端然と並んでいます。もちろん、まだ一人も学生の姿はありません。
 朝歩きの仲間に聞くと、このキャンパス内の林のどこかに、タヌキの親子が棲んでいるらしく、これが時々下水管を通って仙川に遊びにくるといいます。その親子かどうかは分かりませんが、私も仙川を悠然と歩く丸々と太ったタヌキを一匹見かけたことがあります。
 それは、あの東日本大地震から20日後の3月30日の朝のことでした。「何と、仙川にタヌキ現る!」(http://sn-factory.sakura.ne.jp/incidents/?p=2294)をご覧ください(「」内の色文字をクリックすると該当ページが開きます)。タヌキの親子が棲む女子大、なんて何となくロマンティックで素敵ですね。しかし、タヌキですからね、女子大生をだます不届き者ではないことを祈ります。
ところで、29日の朝は、白百合女子大の裏側にあたるあたりの仙川沿いを歩いていると、ふと妙な気配が感じられて前方上空を見ると、電線に鳥が何羽も並ぶようにしてとまっています。日の出直前の5時25分ごろでしたので、まだ薄暗くてはっきりしませんが、白っぽいのでカラスではありません。ハトよりも大きい鳥のようです。少し近づいてしっかり見ると、なんとサギ、コサギでした。
 あの細い長い足でよくとまれるものだと以前も感心して紹介したことがあります。5月3日の「ナガミヒナゲシ、ジャーマンアイリス、ビンラディン、そして電線のコサギ」をご覧ください。この朝は数えると12羽も集まっています。これは珍しいことで、こんなに大勢で揃って電線にとまっている姿を見るのは初めてのことです。残念ながらこの朝はコンパクトカメラしかもっていませんでしたので、ボンヤリした写真になってしまいましたが、12羽のサギであることは確認できると思います。
 今年2月前半の早朝に、少し大型のダイサギが数羽、車座を組むように仙川に集まっているのを見かけたことがあります。その翌日から、ダイサギは1羽を残してみなどこかへ行ってしまったのですが、さて今回のコサギはどうなるのでしょうか。24時間後の今朝30日は、同じ場所の電線にやはり10羽ほどが集まっていました。会議はまだ続いているようです。どこかの国の弱体国会のように、4日ぐらい延長するのかもしれません! しばらく観察を続けてみようと思います。

丸池田んぼ、今年も稲刈りが終わりました


 暑さ疲れにボンヤリしているうちに、今年も丸池公園の田んぼは稲刈りが終わってしまいました。写真の左上は9月12日午前6時ごろの様子で、稲はどこかの国の新総理大臣のように、ひときわ深々と頭(こうべ)を垂れています。今年の気候が稲には合っていたのでしょうか、例年より実入りが良さそうです。
13日の朝は同じような状態で今年の刈り入れはいつだろうかと思って眺めているところに、朝歩き仲間“団G”の面々がやって来たので、
「小学生の稲刈り今はいつですかね?」
 と訊くと、池田さんが、
「稲刈りは小学生には無理でしょう。鎌は危ないですからね。私も子供のころはよく手伝わされてケガをしたもんですよ」
 と言います。池田さんは栃木県の日光に近い農家の生まれだそうです。丸池田んぼのことはよく知らないようです。私が近隣4校の小学5年生が田植えから稲刈りまで体験学習するのだと言っても、稲刈りは無理でしょう、と信じられない様子でした。
 写真の右上は14日の同じ6時ごろです。刈入れは終わっていました。ということは、前日13日の午前9時ごろから行われたのでしょう。池田さんが来て一目見るなり言いました。
「ああ、これは下手だなあ。子どもがやったんだね、やっぱり」
 やっと私の言うことを信じてくれたようです。“団G”は何年も前から、毎朝歩いているのですが、丸池田んぼにはあまり関心がなかったようです。
 ところで、いつからだったか記憶にないのですが、例年は1個(1体?)だけだった案山子(かかし)が、今年は2体増えました。中央の1体は毎年このような顔つきと姿のスタンダードな案山子です。しかし、今年加わった2体のうち、向かって右側は明らかに“ドラえもん”ですよね? とすると、向かって左側の“赤帽紳士”も何かマンガのキャラクターなんでしょうか? 別に自慢するわけではありませんが、この方面はまったく縁がなくわかりません。どなたかご存知でしたら、ご教示願います。
 なお、丸池田んぼの様子は、2010年10月3日掲載の「丸池田んぼの半年」をご覧ください(色文字列をクリックすると該当ページが開きます)。

死のまち~不思議な言語感覚

 この2ヵ月、なるべく政治経済の話題には関心をもたないようにしようと心がけています。内外の政治経済情勢はあまりにも劣悪な状態にあり、少しでも考えようとすると空しくなるだけだからです。残り少ない人生、無駄なことを考える余裕はない、と心の中のもう一人の自分が警告を発し続けています。
 それでも、これだけは触れないわけにはいかないと感じたのが、大臣就任9日にして辞任に追い込まれた鉢呂前経産大臣の発言についてです。この件は9日の午後2時ごろだったでしょうか、天気予報を見ようとしてテレビをつけたら女性アナウンサーが、こんなニュースを読み上げていました。

― 就任早々鉢呂吉雄経済産業大臣が、前日に野田首相に同行して視察した福島第一原発周辺の地域について、今日、閣議後の記者会見で「市街地は人っ子一人いない、まさに『死のまち』という形だった」と述べ、これは不適切な発言ではないか、と問題視されています。―

 ああ、これはすぐに大問題になるなと直感しました。その後の経緯については、誰もが知っている通りです。私は鉢呂なる政治家個人については何の関心もありませんが、もし、この発言で辞任に追い込まれるようなことになったら、これは大いに反論しなくてはならない、と強く思いました。
 しかし、この鉢呂なる人物、私の思いとは裏腹に、翌10日には例の「放射能をつけちゃうぞ」発言が報道されて、私は心底ガッカリしました。「死のまち」発言を弁護する気力はすっかり薄れました。
 もっとも、この「放射能」発言はマスコミによってさまざまな表現が乱舞し、正確にはどうであったのか、今となっては知るよしもありません。ネットでも各紙の表現を列記して、報道の“イイカゲンサ”を指摘しているページもあるぐらいです。
 しかし、多くの人が原発事故で苦しんでいるときに、鉢呂氏の「放射能」発言はあまりにも軽々しいものであったことは間違いありません。そして、言語能力が不足している最近の新聞記者という人種を相手に、冗談でもこんなことを言ってしまう程度の軽率な人物なら、「死のまち」もきっとあまり深く考えた言葉ではなかったのだ、と思うほかありません。

 それにしても、「死のまち」発言に対する反応は、現在の日本人がいかに日本語を知らないか、言語感覚が衰えているかを示す代表的な症例だと私は感じました。
 現在の福島第一原発付近の街の様子は、誰が見たって不気味なもので、「死のまち」という表現は少しも異常ではありませんし、地域の住民の神経を“逆なで”しるものでもありません。晴れ上がった夏空の下には雑草が茂り、焼け付くような陽射しが道路にも畑にも家々にも容赦なく降り注いでいます。しかしそこには、人の気配がまったくないのです。動物の姿もありません。恐怖を感じるような静寂がしはいしています。撮影が始まる前の映画のセットのような不思議な光景。見えない魔物が支配しているような、この無人の地域は、まさに「死のまち」としか表現できないものです。
 ただし、この地域をこのような無残な「死のまち」にしてしまったのが、何であるかがこの言葉に続かなくては意味がありません。鉢呂氏もこの言葉に続けて、だからこの福島の現状を何としても回復させなければならないという趣旨の発言をしています。こう考えてみると鉢呂氏の発言が、福島の人々の神経を逆なでするようなものではないことは明らかです。
 その発言から「死のまち」だけを取り出してしまうから、おかしなことになるのです。今のマスコミは、こういう表現の一部、あるいは言葉の切れ端を故意に切り出して、非難の集中砲火を浴びせるのが常なのです。鉢呂発言の「死のまち」はそれに続く言葉とは関係なく独立した表現であるかのごとく扱われてしまったのです。悪質極まりない報道姿勢と言わざるを得ません。
 9月10日の朝日新聞夕刊、「鉢呂経産相に辞任論」という見出しがつけられた1面のトップの記事には、こう書かれています。

― 鉢呂氏は9日の記者会見で、東京電力福島第一原子力発電所の周辺自治体を「死のまち」と表現し、その後撤回して謝罪したばかり。―

 朝日新聞にしてからがこうなのですから、他の新聞、週刊誌、テレビは、もう考える必要もないと言わんばかりの「死のまち」報道となったのは当然のことかもしれません。これは明らかに報道の暴力です。私は繰り返しますが、鉢呂さん個人を弁護しているのではありません。日本語の問題として、こういう報道姿勢は間違っていると考えているのです。

吉田秀和さんの心に残る「無償の愛」

●音楽のことがまったく出てこない音楽批評
丸池公演でムラサキシキブが美しい青い小さな実をつけています。ムラサキシキブといえば源氏物語の作者の名に由来したものと思われますが、実際には、紫の実がたくさんなる、という意味の、「紫敷き実=ムラサキシキミ」から転じたものというのが正しいようです。学名も「Callicarpa Japonica」で、 Callicarpa(カリカルパ)は、ギリシャ語で「callos(美しい)」と「carpos(実)」が組み合わされた言葉です
吉田秀和さんは音楽評論家ということになっていますが、“音楽”を取り去ったほうがいいのではないか、と思うほど吉田さんが関心を向ける対象は多岐にわたっています。朝日新聞に月に1回連載されている『音楽展望』でも、音楽の話がまったく出てこないことがしばしばあります。さすがの朝日新聞もそのまま掲載せざるを得ないのですが、他の音楽評論家では決して許されないことで、吉田さんの面目躍如といったところでしょう。
少し前のことになりますが、今年4月12日掲載の『音楽展望』はまさにその代表的な例で、タイトルは「立ち上がる国 苦難の時にこそ無償の愛」とありました。今日はそれを紹介したいと思います。
●赤紙、そして身体検査

1945年、といえば敗戦の年ですが、この年の3月、吉田さんにも“赤紙”がきました。周りの人々が次々と召集されるなかで、吉田さんはなぜ自分にはこないのだろう、と不思議に思っていました。
赤紙には「3月某日大阪城の何とか連隊司令部に出頭せよ」とあり、吉田さんはそのころ住んでいた八王子の家から車を乗り継いで大阪城にたどり着きました。そして、身体検査でのことです。それまでは順調に進んでいたのに、吉田さんの番がくると、いろいろクドクドと聞かれ、体のあちこちを触られたあげく、「お前は向こうにいって待っておれ」と言われました。
ずいぶん長い時間待たされ午後も遅くなったころ、年配の白髪の軍医らしき人に呼ばれ、再び身体を触られ「お前はどこの大学を出て、何をして暮らしていたのか? 家族は何人か? これまで病気をしたことは?」などといろいろ聞かれ、またしても「向こうで待っておれ」と言われてしまいます。そして、あたりが薄暗くなったころ、やっと呼び出されて、こう言い渡されたのです。

― お前は身体薄弱、即日帰郷! かかる国家の重大事にお役に立てず誠に不届きだがやむを得ない。職場に戻りお国のために尽くせ ―
その日居合わせた大勢の合格者(?)は、みんな満州にやられるんだ、などと言っていたそうです。そんな中で“ど うして私が帰されたのか、今に至るもわからない”と吉田さんは言います。しかし、学徒動員までしなければならない敗戦直前の兵士不足の時期でさえ、吉田さんの健康状態は劣悪で役に立たない(失礼!)と判断されたのでしょう。
●偶然出会った他人の無償の行為
東京に戻ることになった吉田さんは、その夜はひとまず兄上の家族が住む山科に行こうと思い、灯火管制で暗い大阪の夜道を歩いていました。そこで見知らぬ人に「山科なら京阪電車がよろしい。私もそっちだからご一緒しましょう」と声を掛けられます。電車で向かい合って話すうちにその人は、「八王子まで帰るのなら、せっかくだし、今夜はうちに泊まり、山科は明日行けばいい」と吉田さんを誘います。
その夜、吉田さんはその見知らぬ人の家で大歓待をうけます。お風呂に入り、久しぶりに白米のご飯をいただきました。伏見の新酒も出されました。もっとも、吉田さんはまったくの下戸ですからお酒は一滴も飲めず、その人をがっかりさせました。このような温かいもてなしを受けたのですが、吉田さんはその人の名前も住所も忘れてしまいました。
― ついに今日に至るまで礼状の1本も書かずに終わった。戦時下とはいえ、見も知らぬ、赤の他人をこんなに親切にもてなしてくれたというのに。これに限らず、私が何十年と人の世を渡って来られたのはこういう人の情け、愛情というものがあってのことである。今になって、こんなことをいうのも恥ずかしい話だが、人には無償の愛というものがあるのである。ありがたいことだ。―
この文章が書かれたのは、3.11東日本大震災からほぼ1ヵ月後のことです。おそらく、吉田さんの胸には、被災地で身を寄せ合い、励ましあう被災者たちと、内外の多くの人々からの支援、自衛隊やボランティアたちの必至の支援活動などが去来していたものと思われます。戦時下と同じような悲惨な現実のなかで、それらの行為が人にとって欠くことのできない“無償の愛”に見えたのではないでしょうか。
そして私は、大災害や戦争などの特別な窮地に追い込まれた時に発揮される、そのような“無償の愛”は、平和なときにはなかなか表に出ないものであることに、人の不思議を感じないではいられません。

ちょっとだけ“生臭い”お話を!

定点観測樹、みはらし山のヤマボウシです。台風が近づいていますが、今朝はさいわいまだ雨は降っていませんでした。ご覧ください。たくさんの実がずいぶん大きく赤く熟してきました。可憐な白い花からはちょっと想像できないような、コンペイトウのような形をした甘い実です。鳥たちが間もなく食べにやってきます

日本の政治については、しばらく話題にする気になれませんでした。しかし、マスコミ報道はイヤでも耳に入り、目に触れますから、傍観してはおりました。それにしても、初めて実現した本格的政権交代で、せっかく盛り上がった政治への関心や期待は、2代の総理大臣による約3年間の体たらくで、すっかり萎んでしまいましたね。
いや、これは少し言い方が間違っているかもしれません。日本の政治がこれほど頼りないものになってしまったのは、民主党政権のせいばかりではありません。私の考察よれば、この病状は小泉政権下で飲みすぎた毒薬がじんわりと効いてきて、それ以降の短命自民党政権で発症悪化し、特効薬になるかと思った政権交代が、民主党の未熟な政治力と、その足を引っ張ることに明け暮れた自民党など野党の愚挙によって、すっかり衰弱し、今や意識不明の重態に陥っているのです。
それでも私は、3.11東日本大地震は、ひょっとすると政治が覚醒し、まともさを取り戻す千載一遇の好機かもしれない、なんて性懲りもなく密かに思ったのでした。しかし、驚きましたねえ。この1,000年に一度あるかないかの大災害への対応のお粗末さで、政治はいっそう混迷し、完膚なきまでに信頼を失う結果となったのです。
ああ、政治なんてこんなものかと、うなだれたのは被災者ばかりではありません。全国民の大半がすっかり政治と政治家に失望し、自分の命は自分で守らなければならないと思い知ったのです。

●ノーサイド、ドジョウ、小沢、財政と景気

さて、新首相の門出に難癖をつけるのは無粋かもしれませんが、人間らしく生きられる社会を待望する者としては、やはり苦言を呈さざるにはいられません。
まず、総裁選挙に当選しての挨拶で、“もう、ノーサイドにしましょう”とか、“誰が好きだとか誰が嫌いだとか、そういった怨念は捨てましょう”というような言葉を聞いて、これはまるで小学校の学級委員の選挙みたいではないか、とわが耳を疑いました。こんな言葉を当選挨拶で言わなければならないほど、今の政治家はその資質を失っているのです。
そして、党内融和が第一で、幹事長に小沢一郎氏に近い人物をあて、この人事を経団連や連合の代表が“見事だ”と反応するにいたっては、何をかいわんや。日本の政治から小沢的なものを排除することが、どれほど大切なことかをすっかり忘れています。

そして、ドジョウだとか金魚だとか、くだらない比喩に感心するマスコミの反応も問題です。最近の政治家の顔つきは、見るに耐えないものが多く(失礼! でもホントです)、ドジョウにも金魚にも値しない、意思薄弱権力ボケの見るに堪えない顔ばかり。ドジョウ発言に謙譲の美徳を感じるのは見当違いでしょう。
議員の顔といえば、東北の被災地で今なお苦しむ多くの人をどう思っているのか、代表選挙から総理指名選挙にいたるまでの会場や議場での議員たちの顔つきや態度をご覧になりましたか、みなさん。何が嬉しいのか満面に笑みを浮かべ、大口を開けて笑いながら談笑する多くの議員を、テレビのニュース画面で見て、吐き気がしたのは私だけではないはずです。

●歴史的円高って何でしょうか?

政策についても1つだけ。新首相は財政の健全化と経済成長を両立させることがご自分の最大の使命であるかのように言っています。しかし、これは絵に書いたモチではありませんか?
考えてもみてください、財政が悪化しているのは日本だけではありません。アメリカ、ヨーロッパの主要国も軒並み巨額の赤字を抱えた財政状態で、経済成長率はかつてないほど低い数字に留まっています。
今は世界中の主要国経済が低迷しているのです。そして、これが何に由来するのかを追求せず、財政健全化なくして経済成長なし、経済成長なくして財政の健全化なし、などとなぜ言えるのでしょう? これは単なる政治家のリップサービス、いやゴリヤクのないお題目に過ぎません。
思い出してください。1971年8月15日のニクソン・ショック(ドル・ショック)を。この日以降、ドル紙幣と金との兌換は停止されたのです。ドルは刷ろうと思えばいくらでも刷ることができるようになったのです。これが世界の“基軸通貨”なのですから経済が溶けていくのも当然です。それから、40年。世界経済はついに瀬戸際まできてしまったのです。
今日は結論だけにします。財や効用と結びつかない、金融資金=マネーが世界的中にあふれ、自由主義市場金融経済とやらは、実体経済力を反映しないマネーの水ぶくれ状態に陥ったのです。歴史的な円高なんて、言ってますが、為替レートは何によって変動するのでしょうか? 実態経済よりも、だぶついたお金が行き場を求めて動くことがいちばん大きな要因であることは、誰もが知っているはずです。
円高対策を打とて、市場や経済界が求め、付和雷同するしか芸のないマスコミが騒ぎ立て、政府はやむく円売りドル買いなどの市場介入をします。しかし、その効果は一時的にしかありません。こんなことをこの40年間で何度繰り返してきたでしょうか?

何度試みても一時的にしか効果のない対策は、ほかの分野であれば“捨てられ”ます。医療でも、教育でも、会社経営でも。そうではありませんか? そう考えれば、為替の乱高下で苦しむのは、金融政策や産業実態に問題があるのではなく、多少はあるかもしれませんが、根本的には市場に大量のお金が余っているからに決まっています。このことを考えなければ、どうあっても経済を根本的に改善することはできません。
そもそも、世界中の国々で、官低民高という現象が生じています。要するに、どこの国も国家は貧しく赤字なのですが、大もうけをしてお金を溜め込んでいる企業や個人はたくさんいるのです! これは誰でも知っていることです。これが“変だ”と感じなければ、世界経済は崩壊に向かうしかありません。
新内閣が明日にも発足しようという“めでたい”時ではありますが、浮かれている余裕はありません。今は世界中の経済と政治が危機に陥っている“非常事態”ではないでしょうか?

dourton様、ぴっち様へ

8月22日掲載の「遠い西の海辺の町で思ったこと」にいただいたコメントにお答えしたかったのですが、コメント欄では見にくいので、ここに独立して掲載することにしました。

●まず、dourtonさんのコメントです。
「この間人に薦められて山口瞳の「血族」を読んだのですが、氏は生まれてから、この作品を書く晩年に至るまで、「安気に暮らした」記憶がないと述べておられます。はたして自分の周りを見渡せば、まるでこの世に休暇を過ごしに来たのではないかと思われる人もいる一方で、私も含めなかなか安気には暮らせない人々がいます。この違いはいったい何によるものでしょうか。僕の場合は単に甲斐性がなかったからなのですが、やはり絶えず何かにチャレンジを繰り返さずにはいられない性分の方は、後者の境遇にあてはまるのかもしれません。たとえばめったなことでは旅行も行かれないというのに、毎日せっせとブログに思いを綴られ、さらに新たな境地を目指して進もうとされている船木さんのように。
僕は生来怠け者なので、いつも「この世に休暇を過ごしに来た」ような人をうらやみ、宝くじでも当たってもっと安気に暮らせるようにならないかなあ、などと妄想ばかりしているのですが、もうここらであきらめて船木さんの背中を見て、学ばせていただかなければいけないのかもしれないと思います。
ところでいま「貧困大国アメリカ」(堤 未果:著/岩波新書) を読んでいるのですが、アメリカ社会の惨憺たる状況が記されていて、読んでいるうちに、今の日本は「アメリカと比べればずっといい」と思わざるを得なくなります。全2巻からなるこの本は、ブッシュ政権と蜜月関係にあった小泉政権の悪影響がささやかれ出した2008年に第1巻が刊行され、第2巻が刊行される2010年までになんと33版を重ねており、隠れたベストセラーといえる売れ行きを示しております。この本を読んでブッシュ政権下で極度に先鋭化した「自由市場至上主義」(本書中にある用語ですが舌を噛みそうですね)が、社会を破壊に向かわせるものであったことに気づいた人たちが、たくさんいるということです。小泉政権が誕生した前後に刊行された「経済が社会を破壊する」(正村公宏/NTT出版/2005年)や「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」(C.ダグラス ラミス/平凡社/2000年初版)には、そのとき起こりつつあることに対して重大な警告がなされていたというのに、私たち日本人の多くは真剣に耳を傾けませんでした。しかし日本はまだ間に合うと思います(アメリカは到底「チェンジ」できそうもありません)。船木さんが常日頃おっしゃっておられる「人が人らしく生きられる社会」に一歩ずつでも前進してゆくために何が必要なのか、これからもこの場で、お話をさせていただければと思っています。」

●私からの返信です。
dourton 様
いつも貴重なご意見と励ましをいただきありがとうございます。
振り返ってみると、私はこれまで“休暇を過ごすように”暮らしたい、と思ったことはほとんどなかったような気がします! どちらかというと、自分の自堕落さにいつも腹を立て、なんでもっと勤勉になれないのか、なぜもっと1つのことに集中できないのか、と反省ばかりしてきました。
しかし、今年はちょっと特別な年になりました。数年前から残された時間の生き方を変えようと考え、少しずつそれなりの準備をしていたのですが、3.11東日本大震災がきっかけとなり、そのタイミングは自分の意思で決めるのではなく、まるで何者かに強制されるように突然やってきたのです。
そのため、変化への対応が自分の意思だけでは処理できないことも発生し、大いに戸惑いました。だらしがないことこの上ありません。しかし、一件落着までの経緯は、いずれ公表して多くの人の参考に供したいと考えています。
これからも「人が人らしく生きられる社会」のための、思考のテーブルとして、本欄を継続していこうと思っています。まだなかなか毎日掲載できる余裕はありませんが、頑張りますので、よろしくお付き合いください。

●続いて、ぴっちさんのコメントです。
「西の海辺に、ご旅行だったのですね。昔読んだ梶井基次郎の「城のある町にて」の小説をふと思い起こさせる文章でした。
今までの人生を振り返って後悔の念が起こる…これまで一生懸命に生きてきて、これで良しとしてきた人生にも、大きな試練の時があり、今まさに私はその時なのですが、ある仏教関係者の言葉に救われた思いがしました。「これからは人生の収穫期、成熟の時、一切の後悔を生きなおす時、日本人として生まれた意味を成就させる時」。そのような年代に入ったのだと思いました。
今回の大震災で、日本人であることに目覚めた気がします。災害の多い小さな島国日本と運命を共にしていくんだとやっと覚悟が決まったような。
戦後の日本は、欧米に追いつこうと繁栄ばかりを求めすぎ方向を間違いましたね。今が日本の覚醒の時。どんな国をめざすのか、
どんな暮らしを願うのか、一人ひとりが考えてみるといいのでしょう。
私が気になっている国は「国民総幸福」を国の柱とするブータン。電線がオグロヅルの飛来をじゃまするからと、電気のない生活を長く選んできた国民(最近は地下に電線を通して少しは電気も使っているらしい)。
日本の風土や文化を大事にしながら、人間だけの勝手な豊かさを求めすぎない国にと願います。」

●私からの返信です。
ぴっち 様
おっしゃる通り「戦後の日本は、欧米に追いつこうと繁栄ばかりを求めすぎ方向を間違いました」ね。今が人間らしく生きる国になる正念場だと思います。しかし、この事情は日本だけではなく、どうやら世界中に共通しているようです。この原因が何なのか、今こそみんなで考えなくてはならないと思います。ブータンはそのひとつの参考になりますね。これからもぜひ一緒に考えてまいりましょう。

●もう1通、CH53Dさんから「なにはともあれ、再開おめでとうございます。文字の大きさがちょっと小さくなってませんか。」というコメントをいただきました。この1ヵ月半の間に、製作面でも少し事情の変化がありました。たしかに、文字が少し以前より小さくなっています。しばらくはこの状態でお許しください。

遠い西の海辺の町で思ったこと

7月に訪れた西の町の海

 今朝は、これまでの猛暑がまるで夢であったかのような涼しさに、一息つかれている方が多いと思います。私の机の前は午前9時現在、24度。湿度は雨が降っているせいもあって71%と高めですが、先週までの押さえ込まれるような暴力的暑さに比べると、思わず極楽ゴクラクと言いたくなります。
 しばらく休載状態が続きましたが、この天恵とも思える涼気の後押しもあって、久々にキーボードに向かう気になりました。7月11日、朝歩きで知り合ったタケオとチャー、2匹の格別に親しい猫たちに代役挨拶を命じて、私はちょっとした旅に出ました。西方浄土を目指して、と言うわけではありませんが西に向かいました。
 大学卒業後間もなくから、旅の多い生活をしてきましたが、そのほとんどが仕事に係わるもので、私的な目的の旅はほんの数えるほどしかありません。しかし、この7月の旅は完全に個人的なもので、我ながらとても新鮮な気分がしました。

 あの3.11東日本大震災があって、じつは私の晩年の人生設計にやや狂いが生じました。もう1、2年の間に準備をして、ある転換をしようと計画していたのですが、この予定が予想もしていなかった地震の影響で、急がなくてはならなくなったのです。
 優柔不断な性格が災いして、いわゆる“お尻に火がついた”状態に追い込まれました。たいがいのことには驚かない、ノンビリ屋の私でありますが、今回ばかりはそうも言っていられません。それでも、事態はなるようにしかならない、という運命論者的楽観主義を捨てきれず、とりあえず西に旅をして考えを整理しようとしたのでした。
 東京から新幹線で西に向かえば、まず右手に美しい富士山が見え、それで少しは気が晴れるというものですが、今回はあいにく雲が厚く、まったくその姿を見ることができませんでした。富士山好きの私としては、期待した幸先とはならず、少しがっかりしました。
 やがてたどり着いた、とある古い町は、美しい海岸に山並みが迫り、清流がゆったりと流れ、穏やかな田園地帯が広がっているはずでした。そこは、きっと人生を考え直すには絶好の地である、と見当をつけて行ってみたのです。
 駅舎はずっと昔に北の漁村で見たのと同じ、木造の簡素な小屋のような造りで、思わず時間が半世紀ほど逆回転する思いがしました。しかし、海は近づいてみると汚らしい黒っぽい漂流物が打ち寄せられた岩場ばかりで、川は水量が貧しく薄汚れていて清らかさからは程遠く、広々と広がっているはずの緑地も少ない、平凡な半農半漁の町で、私の期待からはだいぶ外れていました。しかし、執念深い私は、その町に2、3日滞在し、周辺を歩き回りました。
 朝早く山道を少し上って沖合いに目をやると、朝漁の小船が何艘か浮かび、その遥か沖には大型の客船が見えます。対岸の島が朝もやのベール包まれて霞んで見えています。この高さから見ると汚れた海岸はまったく目に入らず、海はひたすらに美しく朝陽に輝いています。ああ、やはり来てよかった。東京にいては決して目にすることの出来ない、日本の小さな海岸線の町の典型的な光景に、心の隅々まで爽やかな風で満たされる思いがしました。

 母が生まれ育った北国の小さな漁村も、こんな具合だったなと懐かしく思い出しながら、自分の人生を振り返ってしばらく遠くの海を見続けました。すると、思い出すだけでも恥ずかしさに胸が痛み、背筋に悪寒が走るようなことが次々に浮かんできました。しかし同時に、今ここで死んでも悔いはない、ある程度のことはやってきたのだから、と自己弁護したくなる気もしました。
 私には私の生れる2年前に病死した兄がいます。難しい病気ではなく、今なら死ぬことはなかったのでしょうが、戦争中でしたから治療が十分に出来なかったのだ、と母に聞きました。海を眺めながら、なぜか私は生前に会うことのなかった兄のことをしきりに思いました。小学校1年生で死ななければならなかった兄の悔しさを思いやりました。
 兄の遺品として私が見せられたのは、小学校1年生1学期までの落書き帳のようなもの1冊だけでした。子どもらしい絵や文章が並んでいて、母は時々ページをめくりながら涙ぐんでいたものです。今はそのノートもどこかに消えて、記憶にしか残っていませんが、子どもながらに、早く死ぬ子は普通の子よりも、絵も文章も上手だなと感じたことを覚えています。
 初めて訪れた西の町の小高い山の中腹から海を眺め、残りの時間はもっと死んだ兄を思いながら生きたいと思いました。ひょっとすると私より遥かにいろいろな才能に恵まれていたかもしれない兄が、もし生きながらえることが出来たらどんなことをしただろうか、そんなことを想像しながら、それをこれからの仕事に生かしたい、そんな気が強くしました。それはきっと、第2次世界大戦で命を失った多くの死者たち、そして3.11東日本大震災の多くの死者たちの霊に報いることにも通じるのではないかと思いました。

まもなく再開します!

定点観測樹ヤマボウシとサルスベリ

 長らくの休載、お詫び申し上げます。
 しばらくぶりの旅に出かけて、嬉しさのあまりすっかり浮き世を忘れてしまいました! それにしても、“浮き世”は“憂き世”でありますねえ。しかし、いつまで嘆いていても仕方ありません。私はこれからは生まれ変わったつもりで、残りの人生を悔いなく生きていこうと気持ちを新たにしております。
 
 憂き世出でし月日の影のめぐり来て 変わらぬ道をまた照らすらん

 西行を思いやって詠んだ、『愚管抄』の著者、慈円の歌です(新古今集巻第18雑歌下 1782)。人の生きる道はどうあるべきか、どこまで深く考えることができるかどうか、私は出家こそしませんが、慈円のように人の世を見つめて修行を積みたい、そう思っています。この日誌も、その修行の記録のつもりで、間もなく再開したいと思っています。

 上の写真は、毎月1日にご覧いただいている、勝淵神社横の“みはらし山”のヤマボウシです。緑色の花はもうはっきりと実の形に大きく成長してきました。下の写真は、同じ“みはらし山”の神社寄りに1本あるサルスベリです。2週間ほど見ないうちにすっかり満開となり、早くも散り始めています。
 仙川河畔にはサルスベリの並木があり、そこでは赤い花をつけるものと、白い花をつけるものが交互に植えられていますが、みはらし山のサルスベリの花は、その中間の淡いピンクです。派手さはありませんが、緑濃いクヌギやイチョウ、イヌシデの葉にも映えて、しっとりと穏やかな雰囲気をかもし出しています。

代役ご挨拶!

 
 このページで時々、吾々の写真を出演料を払わずに使って勝手なことを言っているFさんの友人代表、タケことタケタロウ(左)と、チャーことチャジーン(右)です。Fさんは本当に吾々ネコたちのことが好きらしく、仲間もみんな心を許して付き合っています。
 今朝は、忙しいので代わりに挨拶をしておいてくれ、ということなので、朝食も貰っていないのですが、伝言をお伝えします。何でも、個人的な用事があって、電波の届かないところに行ってしまう可能性もあり、このページを2、3日休むかもしれない、ということなのです。電波って何かよくわかりませんが、それが届けば休まないかもしれない、という中途半端な話でした。
 1年以上、1日も欠かさず掲載してきたので、記録好きのFさんとしては、休むのは悔しいに違いないと思いますが、記録はいずれ途絶えるもの。あまり執着するのは良くないよ、と吾々は忠告していたので、今回はいい機会ではないかと思います。
 どこに行くのか知りませんが、元気に戻ってきて、吾々とまた毎日会えるようになって欲しいと思います。人間なんて、吾々の扱いをみても憎むべき存在ですが、Fさんのような人も少しずつ増えています。対人間関係では吾々はこれからもFさんを頼りにしています。Fさん、お帰りをお待ちしています。
 というわけで、みなさん、今後もFさんをよろしくお願いします。
 ニャ~・ン・ニャ~ン! タケタロウ、チャジーン